お昼の劇場「女豹の蜜」第10回

 お昼の劇場「女豹の蜜」第10回

 たった一つの忘れ物。
 大事な、大切な忘れ物。
 忘れて、いいのですか…?

(この物語はダイジェストでお送りします。)

***

 深夜の練習場。
 練習熱心な新女の猛者といえど、さすがにこの時間では宿舎で眠りについていることだろう。
 だが暗闇の中、一人の女性が静かにリングを眺めていた。
「このリングとも、お別れね…。」
 パンサー理沙子である。翌日(いやすでに本日であるが)に婚約会見を開く彼女は、さらにレスラーの引退も宣言するつもりであった。
 目を閉じ、息を吸い込む。練習場の空気が今までの記憶を呼び起こす。
「本当にいろいろあった…。でも、悔いはない…。」
 入団、上原とのタッグ。そしてアジアヘビーチャンピオンとしての栄光。時代を託すに値する新星たち…。プロレスラー、パンサー理沙子として思い残すことはない。それだけは断言できた。
「だけど…。」 
 だけど心の欠片が一つ足りない。それはパンサー理沙子ではなく、一人の女、佐久間理沙子として満たされぬものであった。

 カツ、カツ、カツ…。

 出入口の向こうから聞こえる足音に振り返る。今の自分が言うのもなんだが、この時間に練習場に来るものなどいないはずだ。
「泥棒…?それにしては…。」
 足音はあまりにも堂々としている。やはり、誰か選手が深夜の特訓にでも来たのだろうか。
 やがて扉が開き、月明かりが侵入者を照らす。
「………っ!?」
 理沙子は声にならない悲鳴を上げた。
 侵入者の正体はブレード上原、上原今日子であった。
「………!」
 新女から出入り禁止を言い渡された上原がなぜ、今ここにいるのか。これは夢か幻なのか。理沙子はパクパクと唇を動かすだけで言葉が出ない。
「………。」
 上原は表情を変えずに理沙子を一瞥すると、トレーニングウェアを脱ぎ捨てる。
「………ッ」
 ウェアの下にはリングコスチュームを身に付けていた。戦闘スタイルに入った上原はリングの上に上がると、準備運動を始める。
「……。」
 上原の意図を察すると、理沙子は強くうなずき、更衣室へと入る。

「今日子…。今日子、だよね…。」
 胸の高鳴りが押さえられない。身体の芯から発せられる熱が止まらない。頬が染まるのが分かる。
「夢なら覚めないで…お願い…!」
 着替える手が震える。今日子の姿が幻で、自分が更衣室から出たら消えているのではないかという焦りと不安からだ。
 それでも、
「ああ、仕事明けでメイクが崩れたままだわ。こんなことなら直しておけばよかった…。」
 などと考えてしまうあたりが女心か。

 無事に着替えた理沙子が更衣室から出ると、上原が青コーナーにもたれ掛かって待っていた。
 ほっと胸をなでおろすと、理沙子もリングに上がり、ウォーミングアップを始める。
 体が温まったところで赤コーナーに立つ。
 照明は月の明かりだけ。だが、長年トレーニングを積んだこのリングではそれだけで充分であった。

 互いにリング中央へ進む。
 遠く、長い時を超えて、パンサー理沙子とブレード上原が、佐久間理沙子と上原今日子がここに再会する!

(つづく)

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